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インタビューシリーズ第1回
作家 山崎洋子さん



空手のおかげで、今までできないと思っていたことができるという発見がうれしい。[インタビューを見る]
こんな小説みたいなひどい境遇に私が生まれ育ったというのは、必ず小説みたいな大どんでんがあるに違いない
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病気になったり嫌なことがあっても、その中でも面白いことを見つけてそれを楽しめるかどうか。 [インタビューを見る]
野毛大道芝居で利害関係のない人たちと知り合い、そこから大きく変わった。 [インタビューを見る]


プロフィール

1947年 京都府宮津市生まれ。 コピーライター、児童書、脚本家 を経て小説家に。 1986年「花園の迷宮」(講談社)で 第32回江戸川乱歩賞を受賞。 「熱月(テルミドール)」(講談社)、 「横浜秘色歌留多」(講談社)、 「熱帯夜」(新潮社)、 「吸血鬼たちの聖夜」(文芸春秋)、 「天使はブルースを歌う」(毎日新 聞社)他、エッセイ、ノンフィクショ ンなど。
近年は舞台の脚本演出 も手がける。最新刊「ヴィーナスゴールド」(毎日新聞社)。


公式サイト 冬桃宮






インタビューを終えて:
 山崎さんと知り合ったのは数年前のこと。作品はもちろんその優しいお人柄に、いっぺんでファンになってしまいました。「元気人登場」の第1回ゲストはぜひ山崎さんにお願いしたいと思いました。大変なご苦労があったのに、負けずに夢を持ち続け、しかもそんなご苦労をまったく感じさせない山崎さんのお話に、元気に生きるヒントをいただいたように思います。 

 インタビュー当日の夜は、「NPOハマには浜を!」のテーマソング発表会が横浜スタジアム近くのライブハウスでありました。山崎さんは横浜に砂浜を取り戻そうというNPOの理事長でもあり、テーマソングの作詞も手がけていらっしゃいます。とても素敵な歌詞なのでみなさんにぜひ聴いていただきたいテーマソングです。

 お話は横浜のJR関内駅の近くにある「燦星庵(さんせいあん)」という焼肉店でうかがいました。土曜の午後の開店する前の時間帯をお借りしたため、残念ながらこの日山崎さんと焼き肉をご一緒することができませんでした。山崎さん、また楽しい横浜のお話を聞かせて下さいね。今度は焼き肉をいただきながら。




  こんな小説みたいなひどい境遇に私が生まれ育ったというのは、必ず小説みたいな大どんでんがあるに違いない

14歳まで京都の宮津市にいました。うちなんかものすごい問題家庭で、ひどい家だったんですよ。私の父親は大変秀才だったんです。海軍の江田島兵学校に一級跳びで入ったほどだったらしいんですけど、戦争が終わっちゃったんですよね。それで人生が狂ったのか、なまじのエリート意識がいけなかったのか、まともに仕事ができなくて。どこかの会社に入ったはいいけれど、使い込みやって、追われる身になって、遂に失踪してしまって。

私が3歳の時、両親は離婚したんです。私は可哀想なことに父方のおじいちゃん、おばあちゃんの所に置いていかれたんです。父親は再婚して子どもが二人できたにもかかわらず失踪してしまったし、母親も再婚して。

めちゃくちゃな家で、私をひきとったおじいちゃんは飲んだくれでした。元警官だったのにね。そのおじいちゃんに耐えかねて、私が10歳の時、私にとって唯一の保護者だったおばあちゃんは入水自殺しちゃったんです。それから2年ぐらい後に、おじいちゃんの方は酔ったあげく、寒い夜に溝にはまって凍死しました。
◇◇◇

だから町では評判の問題家庭。誰もかばってくれないし、保護者はぜんぜんいないし、あのどうしようもない家の子だから、どうせあれは不良になってろくなもんにならないよ、みたいに見られてるのがわかってました。先生もけっこうひどいこと言ったし。

その中で子供ながらにサバイバルできたのは、子どもの頃から映画や本が大好きで、特にミステリーが好きだったからかもしれません。ミステリーは必ず大どんでんがありますよね。小説でも孤児が幸せになる「赤毛のアン」とか「あしながおじさん」が大好きでした。

「こんな小説みたいなひどい境遇に私が生まれ育ったというのは、必ず小説みたいな大どんでんがあるんだろう」と信じることにしたんです。「だれも知らないだろうけど、みんなはどう見ているか知らないけど、私は小説の主人公なんだから」って。これって一歩間違うとね、空想の世界に生きてますから、異常犯罪者の世界(笑い)。犯罪の世界にはビデオばっかり見てバーチャルな世界に入っちゃう人いますけどあれと紙一重とも言えますね。 

私の場合わりとプラス思考でいけたんです。自分の運の強さとかね、そういうものをわけもなく信じてたんですよ。それはたぶん映画とか小説の世界に同化してたからでしょうね。必ずや自分もこういうヒロインになれるんだと思い込んで。
◇◇◇

祖父母が亡くなってから、私は父親の再婚相手にひきとられたんです。なんで引き取ったかというと、自分の子どもが二人とも小さくて女中さん代わりが必要だったんですね。私はこき使われたし、心身共に虐待を受けました。ですからいまでも子どもの虐待の話というのは、文字を見ただけで心身ともに痛くなります。

このまま行くと大けがをするか、ヘタすると殺されるか。二人子どもがいて上が男の子だったんですけど、母親が私をいじめるもんですから同じようにいじめるようになっていくんです。もともとは仲が良かったのに。男の子だから力が強くなってくるでしょ。力の加減を知らないんから、棒なんか持ってばーんとやるんですよね。 その頃、町の芸者置屋さんが私に目をつけたんです。親がいないから、寄越せと言えば寄越すだろうと思われたんでしょうね。お風呂屋さんへ行くとどっかのおばさんがじろじろ見る、上から下まで。それが置屋のおかみさんだったわけですけど。継母に、中学を卒業したら私をくれと、申し入れてたようです。


ついに小説のような大どんでんが巡ってきた。

危ないとこだったんですけど、運良くというか、ちょうどその頃、再婚していた私の母親がようやく私を引き取る気になったんです。町に母親の親戚がいましたから虐待の状況がもれていたのかもしれませんね。母親は再婚していたし、子どもいるし、ほんとうはあまり引き取りたくはなかったらしいんですけど。でも継母はぜったい渡しませんよね。これからお金になるかもしれないんだから。

それで母方の祖母が家出を画策しました。私、家出したんですよ、14才の時に。もう嬉しくてね。だって行く先は東京ですよ。東京なんて地方の子にとってあこがれですよね。しかも実母のもとに行く。ついに小説のような大どんでんが巡ってきたと思いました。 喜んじゃいまして家出だというのに先生に「東京に行くことになりました」なんて、わざわざ言って。あげくのはてにこの先生には、教室の皆の前で「育ての親を捨てていく人間もこの世にはいる」とひどいことを言われましたけど。 そんなわけで町から出ることをクラス中が知り、家出だとも知らずに駅へ見送りに来てくれたんです。クラス中で。ものすごい家出になってしまった(笑い)。京都府のはずれ、海に面した町から、一人で東京まで汽車に乗って来ました。

書き置きをしましてね。継母も実母に、手紙で、お金よこせとか文句を言ったらしいんですけど、いじめてた経緯があるから強くは言えないですよね。それが私の人生、最初の大どんでんです。


最初の誇らしい思い出は幼稚園の時。

それにしても継母のもとにいた頃は、いい成績とってきたら叱られるし、嫌な顔をされるから、だんだん勉強もしなくなったんです。自分の子どもより少しでも良かったりすると、おもしろくなかったんでしょうね。そんな環境だからこそ、一つでも誰かの褒め言葉があるとそれを心の中に大事に大事にしまっておくことを覚えました。

最初は幼稚園の時。先生がね、クラスで一人ずつその場で、まったくその場で創作のお話をさせたんです。誰それさんが終わったらその子が誰かを当てて、という形式で。その時私がした即興の物語がとってもおもしろいというので、全幼稚園生の前でそのお話をもう一度させられたことがあったんです。これがとっても誇らしくて。団塊の世代ですから全幼稚園生となると人数が多かったですよ(笑い)。私の最初の誇らしく大切な思い出です。

その次は小学校3〜4年の時。担任の先生が、作文の度にいっぱい丸をつけてくれる。「すごく文章が上手い」と言って。これもやっぱり大事な「お宝」になりました。

もうひとり褒めてくれた先生がいました。私は本を読むのが好きだったので、文章を読む時にどこで区切って読んだらいいのかがわかるわけです。当てられて教科書を読みますね、国語の教科書。「今読んだ中でだれが上手だったと思いますか」と先生が聞くんです。そうするとみんなはクラスの中で人気のある子の名前を言う。でも先生は「そうかな、先生は洋子ちゃんの読み方が一番上手だったと思う」と言って下さったんです。

物書きになろうと思ったのは、この二つの褒め言葉があったからかもしれませんね。他になにも褒められたことがなかったし。実母のもとに来て、高校生の頃って本をほとんどあまり読まなかった。作文もぜんぜん褒められなかったですね。それでも、自分では覚えていないけど、高校の時の親友に言わせると「あなた言ってたもんね、大人になったら江戸川乱歩賞をとってミステリー作家になるんだって」自分で全然覚えていないからびっくりしました。